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安くて、安全で、快適な家を 作りたい

家を、安く、安全に、快適に改築をめざす おやじの奮闘記

歴史的に気になる事

 この記事を書くので

聖徳太子の事を調べていたら

面白い記事が載っていた。

 

聖徳太子は実在しない

2018年コラムに歴史作家 河合敦

1999年、中部大学名誉教授の大山誠一氏が『(聖徳太子)の誕生』(吉川弘文社)の中で聖徳太子の実在を明確に否定したのがきっかけだったと記されている。

と書かれていた。

 

自分が思うには聖徳太子

実在しようがしまいが

 

聖徳太子という名前は

日本全国行き渡っており

日本のお札にもなった人で

 

伝説的な人物として

考えればいいのかなと

思っています。

 

十七条の憲法は実在する

聖徳太子魏志倭人伝

載っていようが、いまいが

 

小野妹子は魏に行っているのは

間違いないし、

 

十七条の憲法は作られて

いるのだから、そのような事を

行うような人は誰かいたのだから

 

それが、もし架空の聖徳太子でも

構わないと自分は思います。

 

蘇我氏物部氏政権争い

西暦550年頃は、蘇我氏物部氏

政権争い真っ只中で仏教擁護派の

蘇我氏と排仏派の物部氏が戦った

 

587年の丁未の乱聖徳太子の活躍

蘇我氏が勝利します。

 

この時に聖徳太子が活躍したから

蘇我氏は勝てたという事で

 

英雄聖徳太子蘇我氏

出現させたと思われます。

 

聖徳太子は仏教を尊び、

戦勝祈願をします。

 

 

 

蘇我氏戦勝 

それで物部守屋に勝つことが

出来ました。

 

これにより、大阪の四天王寺

勝利祈願成就のお礼として

聖徳太子の命により建立されます。

 

これを見ても、蘇我氏は権力を

握る為に、仏教や聖徳太子

必要だったと思われます。

 

蘇我氏をきっかけに

日本の仏教や

聖徳太子は大きく育って

きた事になります。

 

推古天皇の命により聖徳太子

 585年に用明天皇の病気治癒

祈願のお礼として大分市

萬弘寺は建立されています。

 

大阪の四天王寺はは593年に

建築が開始されています。

 

 

大和の豪族と渡来人―葛城・蘇我氏と大伴・物部氏 (歴史文化ライブラリー)

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天皇諡号が語る 古代史の真相(祥伝社新書)

天皇諡号が語る 古代史の真相(祥伝社新書)

 

 

大分と蘇我氏の繋がり

ここからはあくまで自分の

推論で小説としてお読み下さい

 

何故、萬弘寺は四天王寺より

早く建立されたのでしょうか。

 

587年の丁未の乱よりも早く

建立されています。

 

このことは、近畿地区より早く

仏教が広まっていたか、大分に

強力な権力者が居た事になります。

 

この強力な権力者こそ真名野長者

という事にはならないでしょうか。

 

そうなると何故、用明天皇

大分まで来たかが紐解けてきます。

 

用明天皇の母親は蘇我稲目の娘で

蘇我氏に繋がります。

 

蘇我氏より資金援助の交渉役として

大分の三重迄来られたと考えるのが

一番辻褄が合うよな気がします。

 

それで、般若姫と婚姻を行い

真名野長者の援助を取り付け

 

都に戻り、その功績により

蘇我稲目の娘と結婚して

天皇の座をを手に入れたのでしょう

 

都とのかかわり

そして、都に帰って力を持ち

般若姫も呼び寄せたのでしょう。

 

男として、世にも稀なる美女と

呼ばれる般若姫が愛おしかった

のではないでしょうか。

 

般若姫は、遭難して亡くなりますが

用明天皇はいかばかり

無念だったでしょう

 

 

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国宝臼杵石仏成り立ち

真名野長者は三重町に般若姫の

菩提を弔う為に唐から来られた

連城法師に蓮城寺を建立した

 

唐より偉いお坊さんを呼ぶくらい

ですから、やはり、かなりの

金持ちで有力者だったのでしょう。

 

その後に、臼杵の深田の里に

般若姫を弔う為に満月寺を建てます

 

その周辺に石仏群が平安時代から

鎌倉にかけて作られていきます。

 

今は国宝に指定されております。

 

今となっては、どこまでが史実で

どこまでが伝説かは分かりませんが

大分に、脈々と炭焼き小五郎伝説は

三重の町で息づいています

 

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